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札幌陸別会

コトバンク 「関寛斎」の解説

各 辞書に「関寛斎」の解説が書かれている、詳細はここをクリックしてください。

歴史(概略)

明治34年 関又一斗満に入植。
明治35年 関寛斎、餘作と共に斗満に入植。
明治42年 淕別第一小学校開設(足寄教育所付属)
大正 8年 淕別村、利別村2村を分離淕別外1村戸長役場設置。
大正12年 淕別2級村制実施、淕別村とする。村会議員12名選挙。
昭和23年 足寄郡釧路支庁により十勝支庁に編入。
昭和24年 淕別村(リクンベツ)を陸別(リクベツ)と改称。
昭和26年 斗満地区陸別村に編入(63平方メートル・戸数252・人口1,863人)
昭和28年 陸別町制施行。
昭和37年 陸別高等学校校舎完成
昭和43年 開基50年・町政施行15周年記念事業
昭和48年 陸別小学校新校舎へ移転。
昭和49年 陸別高校閉校。町立国保診療所開設。みどりの園落成。
昭和53年 開基60年・町政施行25周年記念事業
昭和61年 カナダ・ラコーム町と姉妹都市提携調印。
昭和63年 開基70年・町政施行35周年記念事業。
      小利別に日産自動車テストコー ス第1期工事着工。
平成 1年 ふるさと銀河線開業。
平成 7年 陸別浄水場完成。
平成10年 公共下水道供用開始。
      りくべつ宇宙地球科学館オープン。
      開町80年記念事業。
平成11年 銀河の森コテージ村オープン
      第11回「星空の街・あおぞらの街」全国大会開催。(高円宮殿下・妃殿下来町)
平成12年 オーロラタウン93りくべつが道の駅に登録。
平成15年 WRC2004年ラリージャパンの開催が決定。
平成16年 保健福祉センター・陸別町国民健康保険関寛斎診療所オープン
平成17年 ごみの有料化スタート
平成18年  「ふるさと銀河線」廃止
平成20年  「ふるさと銀河線りくべつ鉄道」運行開始
平成30年 開町100年

がんばれ北海道


がんばれ北海道   ノンフィクション作家 合田 一道 第16回 歴史から見えるもの(16)―理想郷目指した関寛斎―
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評伝 関寛斎 極寒の地に一身を捧げた老医 発売



 内容説明
佐倉順天堂に学んで医師として頭角を現し、徳島藩典医に抜擢されるも、惜しげもなくその地位を去り、一介の町医者として市井の人びとに尽くす。さらに晩年には、平等社会の実現を志して、北海道・陸別の極寒の原野の開拓に身を投じた無私の人、関寛斎(1830‐1912)。徳冨蘆花、司馬遼太郎らも注目したその波瀾の生涯と不屈の信念を、多くの史資料および現地探訪に基づいて描いた決定版評伝。
目次
 第1章 母の死、関家の養子に―1830‐47
 第2章 佐倉順天堂で蘭医学を学ぶ―1848‐60
 第3章 長崎留学で洋医学を学ぶ―1860‐62
 第4章 徳島藩の御典医に―1862‐68
 第5章 戊辰戦争、戦雲の軍医―1868
 第6章 典医を辞し徳島で開業―1868‐79
 第7章 北海道に新天地を求めて―1879‐1902
 第8章 理想と現実の狭間で―1902‐05
 第9章 平等均一の思想―1905‐12
 第10章 寛斎が残したもの―1912‐

著者等紹介
 合田一道[ゴウダイチドウ]
1934年北海道生まれ。ノンフィクション作家。長く北海道新聞社に勤務し編集委員などを歴任し、1994年退社。その間、幕末から維新にかけての数々のノンフィクション作品を執筆し今日に至る(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
 価格3,080円(本体2,800円)

斗満の風に乗って 幕末から明治を生き抜いた医師(動画)




 

 関寛斎に係る主な著作・評伝など

  徳富蘆花『みみずのたはこと』(岩波文庫)
  司馬遼太郎『胡蝶の夢』(新潮社)
  司馬遼太郎『街道をゆく15 北海道の諸道』(朝日文庫)
  城山三郎『人生余熱あり』(光文社)
  鈴木勝『関寛斎の人間像』千葉日報社出版局 1979
  川崎巳三郎『関寛斎 蘭方医から開拓の父へ』(新日本新書)1980 
  戸石四郎『関寛斎−最後の蘭医』(三省堂選書)1982 
  米村晃多郎『野のひと 関寛斎』春秋社・北の肖像 1984
  『関寛斎』陸別町教育委員会 1994
  鈴木要吾編『関寛齋 伝記・関寛齋』大空社・伝記叢書 1998(1936年の復刊)
  モリテル『彩雲 関寛斎と海部花』創栄出版 2005
  乾浩『斗満の河 関寛斎』新人物往来社 2008
  梅村聡, 長尾和宏『蘭学医・関寛斎平成に学ぶ医の魂』エピック 2011
  高田郁『あい 永遠に在り』(角川春樹事務所 2013)- 妻のあいを主人公とした関夫婦の物語

 厳寒の地 小利別のお話


真冬、零下30度の朝が何日も続く事がある厳寒の地、陸別。その中心地から15、6キロも北に位置する小利別は、 寒さと雪に閉ざされて「陸の孤島」と言われた事もある。かっては2500人もの住民がいて、山から伐り出した 丸太が小利別駅の周辺などに山積みにされ、木工場は夜どうしモーターの音を響かせていた。 小利別が木材のマチとして賑わっていたのは戦前の事。戦後は急速な林業の衰退と、農耕には厳しすぎる自然条件 から、住民は働く場と農作の意欲をうしなって、住み慣れた地をあとにせざるをえなかった。地域の人口流出が激し くなってからほぼ40年を経た今、小さなマチに住む人は50人をわづかに上まわるだけになった。その数だけを見 ると、明治末期の理想郷を夢見て集団入植した人数より少ない。 小利別にはじめて開拓者が入ったのは明治45年。山梨県八千群豊和村から15戸、90人が団体移住してきた。 現在の「ふるさと銀河」池田と北見を結ぶ旧国鉄網走線が、陸別から野付牛(北見)まで開通し小利別停車場が 開業した翌年で、停車場が開業した翌年で、停車場から2キロほど西の高台に入植した。 その移民団体は日蓮宗の宗徒で、とうじ宗門が社会事業のひとつとして企画した開拓事業にしたがって移住してきた。 心を同じくする宗徒をもって理想の村づくりを目指していたが、そのなかばで事業の宗唱者を失い、苦渋にみちた 開拓をしなければならなくなる。

 

 恐怖の洪水を逃れて


北見との国境にあたる十勝最北の地に開拓事業を計画したのは、とうじ日蓮宗の宗務総長の座にあった佐野前励。 佐野は封建的な宗門の改革綱領を編んだほか、進歩的な考えを持っていた人で、東京感化院の運営に協力するなど、 多くの社会事業に取り組んでいた。 小利別地区の開拓は、宗門の農民を未開地に移住させ、共存共栄の法華魂を中心とする集落を建設しょうといゆう ものであった。いわば佐野が考える「理想の村」を新たに築こうとしたもので、明治44年に北海道視察をして 小利別をその地にえらんだ。 移住の第一陣となった山梨県豊和村の宗徒は、移住の数年前に2度の大洪水に襲われて、多くの死傷者をだし、家屋 のほとんどが流出したり倒壊する被害にあっていた。その洪水の恐怖からのがれて、45年の早春、小利別に入植した。 ところが、理想の村をきずく地は約300ヘクタールと広大であったが、耕作に不向きな高台で傾斜地が多いうえ 北海道一の厳寒の地であった。移住者が入植したのは4月15日。豊和村を出るときは梅の花が終わり、桜がほころび はじめていたが、原野にはまだ雪が残り、木も草も冬枯れて芽生えのきざしもなかった。 「4月だというのに、まだ雪が4尺も5尺もあったね。あたりはまったくの原性林でトドマツやエゾマツのほか、ナラや タモ、センなど大木がびっしりでした」

 

 村松傅次郎さんの入植の記憶


これは父母とともに11歳で移住してきた村松傅次郎の、入植日の記憶である。 気の早いものが雪をよけてクワを打ち下ろすと、カチッと金属音が返ってきた。「おい、土が凍ってるぞ。クワが入れられん。 これじゃいつになったら種がまけるようになるんかのう」豊和村では雪が積もっても、クワをはね返すほど地面がかたく 凍ることはなかった。「そんなにあせることはありません。陽射しは温かですから、この雪もすぐに消えるでしょう。それまでに小屋を立てて、木をできるだけ倒します。開墾するのはそれからです」移住者を率いてきた広瀬啓宣が、一行のはやる気持ちをなだめて、夜露をしのぐ小屋かけをうながした。広瀬はそれまで夕張の由仁村で広宣光寺の住職を務めていた。 佐野善励の法華村構想と布教の意を体し、開拓にかかる実務と、指導をする団体長として入植したのだった。 移住者はポントシベツ川にそった平地に、数戸ごとに共同の居小屋を作り、立木を倒して雪解けをまった。傾斜した丘陵地の開墾はなみたいていの苦労ではなかったが、さしあたっての食糧は家族数に応じて米や麦、味噌などが日蓮宗本山から貸与さた。その返済は3年間の年賦とされ、移住者は開墾と耕作に専念することができた。この年さらに3戸が移住して18戸となった。切り株が残る新開墾地にまき付けた作物は、ことのほかよく成長した。収穫の日をまちきれず、8月には葉を大きく広げた馬鈴薯を掘り起こして、薄い皮を付けたばかりのイモを塩ゆでにして食べた。 「雪解けは遅いが、稔はいい。このイモは郷里のイモより、ずっと美味い」馬鈴薯いがいの作物も育ちがよく、穫り入れどきの訪れが楽しみだった。ところが、その日を迎える前に悲しい出来事があった。明治から大正と年号が変わって間もない9月7日、開拓事業を企画実践してきた最高責任者の佐野善励が54歳を一期として病没したのである。宗門総長の死は信仰心の篤い入植者にとって、父母兄弟の死にもまさる悲しみだった。ひとクワでも畑を広げ1日も早く成懇するのが師への供養と、喪に服すことも惜しんで原野に挑んだ。こうして霜のくるまでクワを振って拓いた入植初年の開墾面積は、1戸平均で1ヘクタール、18戸で17.7ヘクタールにもなった。なかには、1戸で1.8ヘクタールを開墾したものもあり、馬鈴薯、蕎麦、稲黍、菜豆、などを収穫することができた。二年目の大正2年4月には福岡県から28戸、142名が移住した。46戸232名の大所帯となった開拓地は、いつしか法華村と呼ばれるようになり、のちに日蓮宗にちなんで「日宗」と名付けられた。
入植2年目、前年を上回る収穫を期待して耕作と新たな開墾に取り組んだが、雨天続きの不順な天候と早霜に見舞われ、収穫皆無近い大凶作となった。佐野総長の死によって宗門からの支援も途切れがちになり、わずかばかりのジャイモやエンバクと山菜だけで、厳しい冬を過ごさねばならなかった。指導者の広瀬啓宣は自費を持って支援するとともに、副業をすすめ、木材の伐採や運搬、炭焼きなどの出稼ぎでかろうじて食つなぐことができた。啓宣の励ましで厳しい冬を過ごした移住者は、心を新たにして開拓に励み、大正5年までに約170ヘクタールを耕作するまでになったが、山地のゆえと厳しい気象は十分な収穫をもたらさず、食べるのがやっとの状態。それも蒔きつけるはずの種子や種芋にまで手をつけてであった。夏場は野菜と山菜で重労働をしなければならず、秋が来ても現金に換える収穫物はエンバクだけであった。
 
そうした暮らしの中でやがて次々と病死者が出るようになり、一家を挙げて郷里へ帰るものもあった。その数は死者23人、行方不明1人にのぼり、2戸9人が大正5年までに帰郷した。病死者は人口の一割にもなり、わずか5年間の人数にしては異常に多い。まさに食糧事情の悪さを物語るものであろう。その異常さは、のちに開拓地をすてて北見に移り住んだという老婦人が、宗教雑誌によせた体験談で日宗地区を「首吊り部落」と書いていることと関連があるだろうか。その婦人は10歳ほどの時移住した。「明治45年4月15日、3歳の弟をおぶって入植したが、その弟が死亡。引っ越しのため、忙しくて葬儀もできず、味噌だるにいれて埋めた。大正末期から昭和初期の大恐慌のあおりを受けて、日宗は首吊り部落とも言われた。その数16人にもなり、生活苦でしかも現金収入がなく、内地に帰ろうにも帰れなかった」老婦人の記憶は、入植直後と大正末期のことが入り交じっているかもしれないが、生活苦の中でたくさんの人が死んでいった。しかし、篤い信仰をもって辛苦を支えあった日宗地区に、その異名を伝えたものはいない。昭和6年から昭和10年まで、8年を除いて北海道は未曾有の凶作に見舞われた。まさに餓死者も出かねない凶作で、日宗の住民は離農せざるをえなくなり、明治以来の団結もくずれて戸数は急激に減っていった。小利別の原生林が伐り拓かれてから90年、いま日宗地区に残っているのは2戸となった。70歳をこえた老夫婦だけで暮らす2世帯で、野菜を作るほかに農耕はしていない。むかしは馬車が通るのもたいへんがった泥道は、広いアスファルトに変わって川沿いから丘陵のおくへとつづいているが、人家はない。住人はいたことを語る廃屋もなく、血と汗をもって拓いた農耕地はことごとくカラマツの林になっている。佐野善励と広瀬啓宣がきずこうとした理想の村は、温かい日を迎えることなく、やがて無人の地にかえるがろう。啓宣が布教と入植者のこころの拠りどころとして説教所を開き、のちに建立した「前啓寺」が小利別市街地を見下ろす高台ある。しかし、200戸からの檀家が離農した昭和40年代に廃寺となり、今は無残な荒れ寺となっている。スモモとサクラの古木がならぶ参道をあがると、その玄関はガラスが割れ、戸も軒も倒れる寸前にかしがって、祭壇まで見通せる状態だった。外壁はもとより天井も床も波って崩れ落ち、祭壇の据えものが抜け落ちた床に転がっている。かってはここに集って苦労を分かち合い、老いと若きが未来の夢を語りあったことがある。明るい声と笑いもあった。が、いまに残るは、冷害凶作の中で離散していった者たちの悲惨と、無念なおもいのような光景である。厳寒の地に挑んだものがあったことを知るものも、ほとんどなくなってしまったが、利別川にかかる橋に法華橋の名前があり、ポントシベツ川には日宗橋がかかっている。平成7年の秋には、説教所がおかれていたちかくに、移民を企画した佐野善励の彰徳碑が立てられた。入植者の開拓の苦闘は語らぬまでも、歴史の重みを思いおこさせることがあるだろう。

 

 原野に挑んだ孤児(分線地区のお話し)


小利別の開拓は日蓮宗の移民で始まったが、陸別にはもうひとつ宗教に関係ふかい団体によって拓かれたところがある。小利別の南にある分線地域で、以前はウリキオナイといっていた。そのウリキオナイに開拓者を送り込んだのは、群馬県前橋市あった上毛孤児院。日宗団体の入地の前年、明治44年3月に10戸が移住してきた。上毛孤児院は明治25年に創設された。その前年、農尾大地震が発生して、家屋の倒壊が約14万戸、死者7千人という大被害になったが、このとき親を失った孤児を救済するため、クリスチャンの宮内文作、金子尚雄らが中心になって設立した。罪のない可憐な孤児・棄児・迷児・遺児を救済して自立させることを目的とした孤児院で、おもに篤志家の寄付金をもって運営した。収容者ははじめ9人であったそれが明治35年には33人となり、40年には63人もの収容児となり、独立して家庭をもつものもあった。ところが収容児が急激にふえたため運営費が赤字になり、これを解消するために映画や音楽演奏の慈善興業を全国でおこなったが、さらに財源を確保するため園芸部などの創設を計画した。この時、労働教育を兼ねて、北海道開拓が考えられた。それは孤児院を出た男子は会社員や職工、公務員や教員になり、女子はほとんど結婚したが、職につけないものもあった。自活・自立できないものを、農業をもって自立させるための北海道開拓であった。42年3月、職員夫妻と院生3人をまず旭川におくり、小作農業をした。ところが土地の払い下げが受けられなかったため、金子尚雄も渡道して国有未開地をさがし、陸別で開墾の継続ができなくなった土地160ヘクタールを入手した。その地が陸別駅から約6キロのウリキオナイであった。こうして移住してきたのは主任の林勝造と副主任の依田定七は俗、孤児院出身の家族5世帯、さらに小作が3世帯、人数は20人であった。農場経営の計画は、160ヘクタールのうち約60ヘクタールを農地として開墾、残りは放牧地として家畜の導入を考えた。開墾当初の状況は、他の入植者とあまり変わりはないが、金子尚雄はのちに次のように語っている。「3月に開墾に着手、雪中の掘立小屋に床のない土間にワラとムシロを敷いて起き伏し、自然のままならる密林中に、まず軒先から伐採を始め、見上げるばかりの巨木は木こりを雇って枝おろしをなし、根本も一廻り斧を加えて水あげを防ぎ、立枯らしとしただけというような畑へ藩種したのであった。秋になってみたら野菜が収穫されただけで、穀類は小鳥と栗ネズミとウサギに荒らされて、茫然たる有様であった。」冬は炭を焼いて陸別市街で売りさばいたが、37キロで30銭にしかならなかった。大正2年、3年と凶作と天候不順に、みまわれて、収穫は惨憺たるものであったが、孤児院からの援助をうけて開墾は順調にすすんだ。施設も充実して事務所一棟、薄荷製造小屋一棟、赤城寮、妙義寮、榛名寮、独立農舎を設置し、指導者の家族を含めて27人となった。また水力精米所3カ所を設けて、麦やイナキビをついて主食とした。薄荷の製造はその北見に地理的に近かったことから設置したが、栽培状況やどれほどの収穫があったか記録にない。
 
農場経営は孤児院運営の財源を得るのが、院生の自活につぐ目的であり、薄荷はそのための販売作物の一つであった。農場は大正13年に全地の成墾がなり、12月に同庁から付与の許可がおりた。開拓の成果が順調にあがったので、この年から耕作地を各人の自主経営にまかせることにし、種子や購入や税金などもそれぞれの負担とした。やがて昭和に入ると大豆や小豆、雑穀などを孤児院の本部に送れるまで収穫できるようになった。当時の「孤児院報」に金子尚雄にあてた次のような手紙が掲載されている。「麦は穂が出そろいました。馬鈴薯は花盛りです。例年より10日も早く花が咲きました。もはやかなりの薯がついてます。作物の一寸二寸と伸び行くのを見ながら、毎日暑い日光に直射されつつ除草をしています。昨今は二番除草です。草も後から後からとのびてきて、目のまわるような忙しさです。ずいぶん体が疲れて苦痛と思うこともございますが、神様よ、今日も一日愉快に働かせて下さいと祈りつつ畑に出かけます。そしてカボチャの蔓ののびていくさまや、丸いキャベツの玉が日増しに大きく育つのを見るとき、疲れや苦しみなどすっかり忘れて、嬉しい気持ちになります。このこの喜びは私ども農耕者のみ味わう、天恵でございましょう」手紙の主は院生とともに入地して、現地で結婚した女性であるという。昭和13年の日付けがあり、収穫も安定してきたことと、独立した院生たちの労働の喜びがよく伝わってくる。戦後、農地改革で農場は院生たちに開放された。副主任の依田定七も現地に残り、その子孫も現在農業を続けている。定七は現地の責任者として、策付ける作物の種類や管理の仕方のほか、日常生活についても厳しい指導をしたが、ますみ夫人は常に入植者たちをいたわり、農場の母として慕われたという。日宗の移民に先駆けて入植しながら脱落者を出さなかったのは、適切な指導や支援、そしていたわりと素直な信仰がもたらしたものであろうか。農場の事務所があった場所には、昭和51年9月に建てられた開拓記念碑があり、入植当時に植えられた赤松に囲まれて苔むしている。院生たちが暮らししていた赤城寮や榛名寮もすぐ近くにあったのだろうか。まだ雑木の育ちが小さく、空地の様になった場所がある。奥へ続く林道を行くと、間もなく小川の岸に石積みの池のようなものがみえた。多分、飲料水をとったり、雑穀精白の水車などが設置されていただろう。秋の陽があたたかった。真紅のハウチワカエデの葉が折からの風に散って、細い林道をいろどっていた。その大きな木は、入植者たちの苦労を見ながら育ち、入植者たちか真紅の色をながめて、収穫の秋を喜んだことだろう。

 

 

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